当院は「野口のねんぶっつあん」で知られる教信寺・正門の目の前に位置しています。
教信上人は東大寺や興福寺の次期官長とも評されていた奈良時代の高僧です。
さらに教信上人の浄土思想は後世にも伝えられ、法然や親鸞などの念仏聖に影響を与えたようです。
そのような高僧がなぜ加古川市野口町へ?と思うのが普通でしょう。
貴族、豪族たちの権力闘争と弱者の大衆が苦しめられている矛盾に心を痛めた教信上人はお釈迦様の原点に戻り、仏教実践を探究するため、都を飛び出しました。
道中、日本最古の阿弥陀三尊軸のある善光寺の阿弥陀如来様から仏道実践するにふさわしい場所が西にあるというお告げがあったようです。
山陽道をひたすら西に向かい、「天女が舞い降りた羽衣を松の小枝にかけて行水した」と万葉集にうたわれるほどの美しい海岸線から別府川の河口を北上したようです。当
初、旅人の水陸交通の要として野口の里は山陽道屈指の大駅である「賀古の駅」として栄え、美しい海や山に囲まれた洪積大地を気に入り、教信上人は庵を構えたようです。
地位と名誉を捨て、農民と一緒の泥にまみれ、民や百姓のために一緒に働き、さらに、土地の女性と結婚されたとか。高僧が世俗に飛び込み、世俗の人々と苦楽を共にしながら、仏道を実践した先駆者かもしれませんね。
教信上人はこの地に庵を構え、庵の跡に建築されたのが教信寺だそうです。いかに農民に愛され、親しまれていたかがわかります。